「学校というのは真理を追究する場ですから、「不正確でもだいたい伝わればOK。むしろ正確であっても伝わらないのであれば、その論文は世の中に存在していないに等しいので書く必要なし」などという教え方はしないのです。」(なぜ「勉強はできたのに仕事はさっぱりな人」がいるのか? ~「勉強と仕事は違う」プロブレムについて~)
大学では,確かに「不正確でもだいたい伝わればOK」とは教えませんね.ですが,「正確であっても伝わらないのであれば、その論文は世の中に存在していないに等しいので書く必要なし」です.正確に書く事が最低限基準で,さらに面白く書かなければいけないから研究者は苦労しているのです.とくに,nature,scienceクラスの論文となればことさらです.natureは商業誌で,読者には一般の方もたくさん含まれています.「不正確でもだいたい伝わればOK」とは,如何ような物言いでしょうか.間違って伝わる可能性がそれほど良いのでしょうか.(いや,確かに「不正確でもだいたい伝わればOK」というのが日常の大半です.そうでなければ窮屈で生活ができません.)
情報の伝達と正確さは両立することであり,いやむしろ,正確さがなければ正確に伝わらないのはあたりまえでしょう.
問題の本質は,学問の社会では他の社会の方からすると過度に思われるような論理的厳密さが求められていますから,他の社会に出た時はその社会の基準に合わせる必要があるという事です.誤解しないでいただきたいのですが,これはどちらが優れているかという問題ではないのです.社会での仕事は,時に論理よりも行動が実効的であることは,社会のみなさんが一番実感されているでしょう(科学の社会でもそうです.とりあえず実験してみたら良いという事はあります.).
行動者には論理が無くて「も」良いのです.スポーツを見ればすぐわかります.行動して成功すれば良いのです.もちろん論理があれば行動を補助できるでしょうが,第一義でありません.本当か知りませんが,サッカー選手はアイコンタクトで意思を疎通することがあるといいます.そうだとすれば,サッカー選手から見れば,他の社会の方は「何を悠長なことをしゃべっているのか」という事になるでしょう.思考と行動の平衡がそれぞれの社会で異なるのだと思います.
自戒を込めて良いますと,教育関係者も自分たちの社会の基準が絶対ではなく,「適応的であれ」ということを学生に伝えるべきでしょう.時に,自分たちがやっていることがそのまま他の社会で通じると傲慢に思いがちです.お互いに相手の社会との差異を認めてることが重要だと思います.
最後に,この方の思考過程は間違っていると思いますが,結論はあっていると思います.
ちなみに,普通の日常では,過程が間違っているのに結論があっている,そういう事が往々にしてあるから,その思考過程は厳密には問われないのでしょう(もしくは問わなくて良いのです).私の文章はあげあしとりの類ですが,ただ,安易に「大学と社会は違う」という典型的な問題構造に落とされてしまうと,教育関係者はかなり迷惑でもあります.
この方の結論の一部ですが,
その通りだと思います.それぞれの文章を読む読者は異なるのです.
「「読者」についての考え方を変えることで、書類や話し言葉の質が大きく変わってきますヨ!」
「気持ちがこもっていないからではなく、テクニックがないから読まれない」

0 件のコメント:
コメントを投稿